連盟の沿革

 戦後の⼩学生スポーツの普及は、全国的な活動としてスポーツ少年団組織の結成により推進されてきましたが、なかでもバレーボールは東京オリンピックで好成績を生んだことにより急速に発展したことは周知のとおりです。しかしながら、児童生徒の健全育成をはかるため対外試合の参加制限が敷かれ、活動は県内に⽌める旨の ⽂部省通達 が出されたので大分県バレーボール協会としては 県内各地域の普及に努めた。期を同じくして⽇本バレーボール協会も、昭和
48年(1973)に各県で大会を開催するよう呼びかけを⾏った。大分県バレーボール協会は第1回少年少女バレーボール大会(9⼈制)を開催し県内から15チーム(少女)の参加を得て第1回大会として成功裏に開催できた。以降この大会は、毎年開催され第8回大会には参加が40チームまでになりました。 また、同大会と並⾏にして、昭和50年(1975)から⽇本バレーボール協会主催・朝⽇生命厚生事業団協賛による全国⼩学生バレーボール教室がはじまりました。この教室は指導者の資質向上と⼩学生の競技⼒向上を⽬的に実施し、毎回児童100⼈〜200⼈、指導者20⼈〜30⼈の参加を得て、とくに指導者には6⼈制への理解と指導体制への切り替えのために多大の成果を上げることができました。 その後、対外試合の規制も緩和され昭和56年(1981)第1回ライオンカップ全国大会⼩学生バレーボール大会大分県大会が開催され、前記の9⼈制大会とバレーボール教室は6⼈制大会にそして教室も6⼈制になりました。本県では第1回大会のみ参加希望別による6⼈制・9⼈制併用大会を実施し全国かにら注⽬されました。
その後大分県バレーボール協会指導普及委員会が中⼼となり、県下各地区を巡回指導しながら⼩学生バレーボールの6⼈制普及振興に努めた結果、県内各地区バレーボール関係者の協⼒をいただき昭和56年(1981)に「大分県⼩学生バレーボール連盟」が設⽴され現在に⾄っています。

 大分県小学生バレーボール連盟規約.pdf
令和2年度_役員名簿.pdf